初めはうまくいっていた。
地主の息子も毎晩結の歌声を望み、客人をもてなすのに結が出されることもあった。
だが、人の世とは常に揺れ動くもの。それも永遠には続かなかった。
囲い女は飽きられれば終わり。
地主の息子も、だんだんと似たような歌ばかり歌う結に飽きてきてしまった。
その歌声に魅力を感じなくなってしまっていた。
もう、感覚が麻痺してしまっていたのかもしれない。
とにかく、地主の息子は結の元に来なくなった。
声さえかけなくなってしまった。
そうなると、結は周りの者に煙たがられるようになった。
穀潰し、などと陰口も囁かれ、だんだんそれはおおっぴらに言われるようになり、皆が結を嘲るようになった。
結は絶望した。
みんなが優しくて幸せだった日々から、一気に冷たい水の中に落とされた気分だった。
深く深く、どこまでも底がない暗闇に落ちるような。
結は家を出た。白い雪で埋め尽くされた世界へ出た。
どこに行くあてもなかったが、自然と足は故郷へと向かっていた。
だが、故郷に帰ったところで、誰も結を迎えてくれるものはいない。
結は、辛いことがあるといつも行っていた村の裏にある山へ歩いていた。
着の身着のままで出てきたので、足は擦り切れ、着物もぼろぼろ。
寒さで肌の色も青ざめていた。
だが、結は気にすることなく歩みを進めていた。
結にとって、もう自分の体のことなど、全てに見放された人間にとってはどうでもよいこと。
彼女はなぜか、ただ山に向かっていた。
ひたすらに山を登り、しばらく登ったところ、ちょうど山の中腹辺りで結は立ち止まった。
立ち止まって、ひざまずき、寝そべる。
その動作はゆっくりと、山を撫でるように。
そうして彼女は目を閉じる。
次に目を開けた時には、彼女は人ではないものになっていた。
着ていた着物は、いつのまにか綻びがきれいになっていた。
肩が流れる髪に気づき、つまむ。
色素が全部抜かれたような白になっていた。
肌の色も、不気味なほど、まるで体の中が見えそうなほど透けて白かった。
だが、見えそうな血管も見えず、ただ薄い色の腕が見えるだけだった。
結は、それで自分が何か異質なものに変わったのだと悟った。
触れば感じられた暖かさが今はない。
頬に触れても、地面の雪と同じくらい冷たい。
「ここにいろと……言ってくれるの……」
結は、山が自分を迎え入れてくれているように感じた。
だから、結はこの山でこれからを過ごすことを決めた。
――私は山、山は私。私は山の中にいる。
結は山のために歌った。自分には歌うことしかできないから。
すると、その歌声に誘われて、旅人が近づいてきたりした。
虚ろな目で近づいてきて、結が驚いて歌をやめると、旅人は意識を戻し、結の姿を見て驚いて逃げていく。
そうして、結はいつしか「雪女」と言われるようになっていた。
「雪女」というものがどういうものか、結はよくわからなかったが、皆が恐れ慄く様はおもしろかった。
そうして何回か歌を歌うと、次々と人が来た。
今まで結を蔑んでいた者達が許しを請う姿を見て、実に滑稽で、結はおかしさをこらえきれなかった。
そして、人の温もりを奪うことを覚えた。
歌声で縛り、触れると人は簡単にその温もりを無くした。
そして、結と同じようなり、倒れた。
だが違うのは、彼らには血管が見えたことだった。
結はそれを見るたびに、自分の首筋に手を添える。
――何も、何も聞こえない。 何も、何も感じない。
村長の話と結の声がかぶるように助六には聞こえていた。
助六は、そこにないものを見て、聞いて、感じることができる。
いや、正確には、そこに昔あったが今はないものを。
人々には見えていないが、確かにそこにあるものを。
結のいる山が近いこの場所に、山にある結の思念が助六に流れてきたのか。
助六は、ふと嫌な予感がした。
遺体の確認をしに、村人が山に登っていった。 一応結を警戒して、それなりの人数をそろえて。
結は、どう思うだろうか。どうしようとするだろうか。
助六は入っていた布団から抜け出し、慌てて身支度を整えた。
「村長、俺山に行ってくるから!」
「大丈夫か。お前は……」
「とにかく行ってくる!」
笠をかぶりながら、助六はそう言い、村長の家を飛び出した。
助六が再び山に登ろうとすると、また強い風が雪を舞い上げ、助六に激しくぶつかってきた。
遺体を見つけたあの洞穴の所までやってきた。
助六は、嫌な予感がどんどん膨らみ、胸が破れそうだった。
洞穴に近づいた時、覚えのある気配に立ち止まった。
全てのものを拒否する空虚な圧力、そして無音。
「結―――――――っ!!」
助六は思わず声をあげていた。
怒りにも、嘆きにも似た複雑な気持ちを含んで。
この気配は彼女の気配だ。
嫌な予感は、確定にも近い思いに変わり始めていた。
そして洞穴の中に入り、辺りを見回す。
洞窟の入り口付近には、先ほどと変わらず遺体があった。
だが、村人が遺体確認のために山に来ているはずだ。
遺体がここにあるのはおかしい。
自分がここに着く前に、彼らがここに着いているはずだ。
助六は洞穴の奥に続く、真っ暗な道を見つめた。
この先に、もしかしたら答えがあるかもしれない。
正直、いくら場数を踏んでいても、直接対峙しなければいけなくなる瞬間は緊張する。
下手をすれば自分の命が危険にさらされるからだ。
だが、助六は寺で世話になっている、師匠でもある老僧の言葉を思い出す。
人には見えないものが見える力のせいで、周りの者から奇異の目で見られていた助六を、その老僧は優しく見守ってくれていた。
――お前がそういう能力を持っているのは、神様仏様が課したお前への仕事なんだよ。お前はその能力で人々のために、この世の中のために、お前はそれを使って奉仕しろ、ということだろう。何が与えられているのかわからないよりわかりやすくて、私はうらやましいよ。それだけに、お前は大きな責任も負っているのだ。ゆめゆめ、軽挙を起こすことのないようにな。
僧侶のくせに、色々な神様を信じていた変な人だった。
建前では仏にまつわる説教なぞするが、その裏では自分なりの宗教観を持っていた。
助六は、仏様の話より、その老僧がしてくれる話の方が好きだった。
仏様の話が嫌いなわけではないが、老僧の話の方がわかりやすかっただけだ。
でも、たぶんそれは誰にも受け入れてもらえない。
だから、助六と老僧だけしか知らない話。
その老僧の言葉を思い出し、助六は改めて意を決して、洞穴の奥へと進んでいった。
つづく(後編へ)
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