...小説


雪切恋歌 後日談


 その日は、爽やかに晴れた、暖かい日だった。

 こういう日は、もうすぐ春が来るのではないかと、春への恋しさが強まる。

 そんな日、助六は師匠の目の元、写経を行っていた。



 助六の師匠である無名むみょうは、漢詩の本に目を通していた。

 助六が進める筆の音だけのする空間の中、年月の重みのあるしわがれた声が突然響いた。



「助六、お前、恋をしたな」



 びしゃ。

 助六は動揺の余り、力加減を間違え、筆を紙に強く押し付けてしまった。

 見事に文字が潰され、黒い大きな染みが広がってしまった。



「お師匠様!」

 助六は無名に向かって怒鳴った。その顔は真っ赤になっていた。

「ほぅ、どうやら図星のようだな」

 睨む助六に全く動じないように、無名は僧に似つかわしくない意地の悪い笑みを浮かべていた。

 助六はますます顔を赤くする。

「そ、そんなことは……」

 小さく口元で転がすように助六は言い訳をしているようだが、その声は無名には届いていない。



「お前が雪女の村から帰ってきて以来、様子が変だったからな。どうしたのかと思っていたのだが。僧侶は煩悩を捨て去るものだが、お前はまだ若い。そういうことの一つや二つあったとて誰も責めはしないさ」

 我が子の成長を見るような笑顔で、無名はそう言った。

 助六は、僧にあるまじき発言をする自分の師匠を半ば呆れた目で見ていた。

「何だその目は。写経を増やしてほしいのか」

 無名は変わらない笑顔だが、その声には少し棘がある。

「別に俺は暇ですから、いくらやっても平気です」

 助六は涼しい顔をして筆を取り直した。

 新しい紙を取って、また初めから書き写し始める。

「そうだったな。お前はそういう作業が好きだったな。いじめがいのない奴だ」

 無名は心底つまらなさそうな顔をしていた。

「お師匠様は、つかみ所のない人だと思います」

 助六の本心だった。

 実際、的を射る発言をするかと思えば、子供っぽい一面も見せたりもする。

 助六の言葉に、無名は大きく口を開けて、楽しそうに笑った。

 助六は気づかれないようにため息を吐いて、写経を続けていた。

 本来写経は精神を落ち着かせるためにするものなのに、これでは全く写経の意味がない。

 ただ経文の複製を作っているだけにしか過ぎない。

 だが、助六は仏教徒ではなかった。少なくとも本人はそのつもりではなかった。

 だから写経の意義など、本当のところどうでも良かった。

 住んでいる場所が寺ということと、自分の師匠という二つの理由で、どうしても仏教と関わりを持たなければならなかっただけだ。



「そういえば助六、お前髪は剃らないのか?」

 また無名が声をかけてくる。

「お師匠様、論点をまとめてください。先ほどの話題はどこにいったのですか」

「なんだ、そんなにお前は恋の話がしたかったのか」



 ずび。

 筆がずれた。思いっきりずれた。紙を破いてしまった。

 助六はまた新しい紙を机の上にのせた。

 だんだん助六は情けない気分になっていた。

「お前もそういうことに興味のある年頃だよな。いやいや、結構なことだ。お前の好みというものがイマイチわからんでな。何も言わなかったのだ。だが、私も伊達に年を取っている訳ではない。何かあれば助言をするぞ」

 その助六の様子に、無名は喜々としていた。

 助六は、筆を置き、今度はきちんと無名と向かい合った。



「お師匠様は、俺に何が言いたいんですか」

 無名は笑みをうかべたままだったが、その顔にやや鋭さと重みが増した。

「ようやく話をする気になったか。では単刀直入に聞こう。……あの村で何があった」

 互いに目線を合わせたまま、しばらくの沈黙。

 この人の目は何も逃さない。何も逃れられない。

 助六はよくわかっていた。



「……何から話せばいいのか……」

 本音だった。色々なことがありすぎて、何から話せばいいのかわからなかった。

 思わず視線が宙をさまよった。

「お前の心に残ることを話せばいい。全てを語る必要はない」

 無名は壁に背中を預けたまま、助六を見る。その目は優しい色になった。

「……山と共に生きる、優しい女に会いました……」

 助六はそうして、ぽつぽつと語りだし、村で起こっただいたいの内容を伝えていた。

 無名はその話を静かに、目を閉じて聞いていた。

 彼が何か考える時の癖だった。

 助六が話し終えると同時に、彼もゆっくりと目を開ける。

 少しの沈黙の後、無名は口を静かに開いた。



「……お前が帰ってきてから何かおかしいと思ってはいたが、そういうことがあったのか」

「お師匠様は恋だ恋だとおっしゃいますが、正直なところ、俺はこの気持ちが恋なのかよくわかりません。女性と接することも苦手ですし」

「そうか。お前自身がわからないことを、他人である私がわかるわけがないから、私だってその気持ちを何であるかなど決められない。だが、少なくともお前はその結という女の存在を恋しく感じていると私は思う」

「……そう、ですね……」

「人は時にそれを『恋』という」

「……そういうもの、ですか……」

「まぁ、好きに考えるがいい。名前がついたからと言って、気持ちが変わる訳じゃない」

「はい……ありがとうございます」

 助六は腰を折り、畳に手をついて深く礼をした。

 次に顔を上げた時、目の前の無名の顔は、また茶目っ気のある顔になっていた。

 助六は嫌な予感がした。



「それにしても残念だ。助六は私が幼少の頃から目をつけておったのに、やはり女に目がいったか」

 助六はその言葉を聞いて、凍りつくように固まった。実際、血の気が引く感覚に襲われた。

 無名は、考え方は破天荒ではあるが、一つだけ他の僧侶達と気の合うことがあった。

 男色。女人禁制の場ではしばしばあることだった。

 さらに寺では小姓の少年が夜伽に呼ばれることもしばしばあった。

 幼少の頃から寺にいる助六も、そういうお呼びがかかりそうになったが、無名がかくまってくれたから、相手をせずに済んでいた。

 だが、彼は幼少の助六をかくまった初日に、自分の性癖を告白し、寺の裏で行われていることをこと細かく説明した。

 幼い助六には衝撃的で、難しい内容も多かったが、言い知れぬ危機感を本能は感じていて、真剣に聞いた。

 無名はいつも自分を助けてくれていたから、ついついその事実を忘れてしまっていた。

 しかし、今の発言は今まで聞いたことのない衝撃の真実だった。

 でも、かくまってくれたことだって、理由もなしにするはずもない。

 そう考えると、つじつまが合うと言えば、合う。



「ど、どういうことですか……?」

 助六は思わず呟くようにそう言っていた。

 助六は口から出てしまった言葉を後悔した。答えは聞きたくなかった。

「お前は幼少の頃からかわいかったからな。これは育てばいい男になると思っていたのだよ。うん、私好みの奴になったが、剃髪をしなかった時に、これは駄目かもしれんと思ったな」

「……はぁ……」

 無名は相変わらず笑顔だったが、助六の気分は落ち込む一方だった。



「まぁ、冗談はその辺にしておいて……」

「え!?」

 助六は無名の言葉に大きな反応を示した。

 無名はその反応に少し驚いたように目を見開いた。

「何だ。お前にはまだその気があるのか。それなら私はいつだって……」

「違いますって!!」

 助六は力いっぱい否定した。

 この老僧、年齢までわからなくなってきた。

 どこからそんな精力が出るのか――ではなくて。

 助六は一度落ち着こうと、深く息を吸った。

 無名は先ほどと同じ笑顔でいた。



「先刻のは冗談だ。嘘ではないが、あまり真剣に取るな。真面目ばかりでは疲れてしまうからな」

 助六は頭が痛むような心境だった。思わず額に手をあててしまった。

 師匠の戯れに疲れたのと、やはり先ほどの話は嘘ではなかったのか、という複雑な思いもあった。

「でも、私の育て方がよかったのか、お前には良い傾向が出てるようでよかった。仏教の良さをわかってもらえなかったのは残念だが」

「お師匠様の教えで、仏教の良さを知れというのが無理です」

 無名は小さく、息をつくように笑った。

「やはり、髪は剃らないのか」

「……はい」

「決めたのは、その女のためか」

「……俺には、捨てきれないものが多すぎます。真理を悟るために俗世を捨てるべきなのか、どうしてもその必要性がわからないのです。……きっかけは、彼女だったのかもしれません」

「辛いことになるぞ。お前には希少な能力があるから、ここでの生活はしていけると思うが……」

「……俺は……ここを出ていこうと思います」



 助六は自分の師匠の目をまっすぐに見た。

 その瞳は、明るく冴えていた。

 無名は目を細め、眩しそうにその視線を受けた。

 そして、無名はさりげなく視線を下に向け、目を閉じる。

 どこか、その顔は嬉しそうだった。

「そうか……。すっかり頼もしくなったな、助六。お前なら旅に出てもやっていけるだろう。……これで私は安心して死ねるよ」

「何をおっしゃいますか。まだ俺はお師匠様に教えていただきたいことがたくさんございます。お師匠様がここにいる間は、まだ寺にいるつもりです」

 助六の顔が心細そうに歪んだ。

「あぁ、そんな顔をしてそういうことを言うな。抑えがきかなくなるから」

 無名言葉に、途端に助六は大きく体を震わせて後ろに下がった。

 無名はのどの奥から出すような声で笑っていた。

「またお戯れを……」

 助六は苦笑いを浮かべていた。

 しかし、次には無名の厳しい声が入る。

「……だが、私の側にい続けることがお前のためになるとは限らない。これからのこと、よく考えることだ」

 無名は目は閉じたまま、そこには笑顔はなかった。

「……はい」

 助六は、顔をひきしめてうなずいた。



 人の寿命は永遠ではない。無名の側にいつまでもいられない。

 半端者を抱え込んでいる無名の立場もあまり良くないことも知っていた。

 無名はいつも一人で自由に生きているように見えるが、世間のしがらみから完全に脱することはできない。

 無名に、これ以上迷惑はかけられない。

 自分が、しっかりしていかなければ、と助六は思っていた。

 寺を出ようと考えたのは、そのためでもある。

 この能力と、寺で学んだことを使えば、どのような形にしろ、生きてはいけるだろう。

 元から、この寺の者に情を持ってはいない。

 それに、寺の中だけでなく、外の世界のことも見てみたかった。

 せっかく捨てずに選んだ俗世だ。色々なものを見てみたい。

 寺を出る時は早い方がいいかもしれない。

 師匠の言葉もあり、助六はその思いを強めた。

 ふと、胸の冷たいぬくもりがうずいた。

 助六が思わず胸に手をやると同時に、無名の声がした。



「それじゃあ、写経はもう良いから、この詩を読んでみろ」

 助六の思考を遮るように、無名は自分の持っていた本を助六の前に置いた。

 助六は本を手に取るが、不安げな顔で無名を見た。

「……読むことは苦手です」

「苦手なら練習をすればいい。読まなければうまくならん。声を出すことも大事だぞ」

「今まであまりこういうことはしていなかったかと……」

「私がお前の声を聞きたいんだ。老い先短いし、お前もいつここを出て行くかわからんというのなら、私の好きにさせてもらうよ。嫌ならしなくてもいいんだぞ」

 無名は試すような笑顔で助六を見ていた。

 心底状況をおもしろがっている顔だと、助六は感じていた。

 助六が無名の頼みを断ることなどしないとわかっているのだろう。

 助六は渋々詩を読み始めた。慣れぬせいか、たどたどしく。

 その声は雪に吸われて、部屋にこもる。誰にも聞かれなかった。

 外では、暖かく日が大地を照らしていた。

 声を吸い込む雪の光がチラチラと揺れる。



 春はまだ、遠い。



−The End−


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というわけで、ブログで載せた切恋(タイトル略)後日談。
本当はこれに結をまた絡めてみようかと思ってたのです。
結に似てる人がいて、実はー……みたいな。
でもこれはこれで落としておいた方がいいよなーと思い、とりあえず師匠に弄ばれて終わりにしました(え)。
やっぱりこの話は切ないままで終わった方がいいかなーと。
いや、なんだかんだ救われてるのかな、あれ?(何)
ってか、師匠のキャラがおいしすぎるなーと改めて思う(笑)。
男色設定は初めて書いた。でも坊主にはつきものだよ!(待て)
だけど、本当に師匠何歳だよ(笑)。
まぁ、昔の人の寿命は短かったから、50歳とかでも老人と言われるから、元気な人は元気なんじゃないかなー…ということにしておきましょうか(え)。
助六を幼少の頃かくまってーとかだと、50とか60ぐらいだよな。
ってか、この時代設定も謎だよな。
一応江戸って考えていいのかな。
こんな落ち着いた時代なんて、平安か江戸ぐらいしか思い浮かばない。
江戸なら、家康も80だか90まで生きたというから、年とって元気な人がいてもいいだろう。
家康もご盛んだったし(余計なお世話)。
そして、これもkevyさんに捧げさせていただきました。
ちょっと遊びすぎて申し訳ないですけど(苦笑)。
師匠の名前、無名も、kevyさんにつけてもらいました。
私は坊さんの名前なんて思い浮かびませんで(笑)。
でもなんかかっこいいっすね。私は名前などには縛られん、みたいな感じで。
師匠、私は書きながら、この人女好きにしたいなーと思ってたんですが、なんか男色設定も捨てきれず、結局男色を取りました。
彼の奥深さは男色から出る、ということにしました。
女好きだと、私はどこかくたびれてる感じのイメージになっちゃうもので(笑)。
思ったよりもハマりこんでる自分にびっくりでした。
楽しんで書かせていただきました。和物もいいですねー。

RAN ***2006/5/10***


ちなみに「無名」って名前は映画のHEROからとったわけじゃないです…… たぶんw
ケビ



おわり(前編へ)




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