...小説


たからもの 前


「何の本読んでるの?」
「うん? 小説だよ。この前、見つけたの」
 埋まり込むように本をじっと読んでいたこの人に話しかけると、こう返ってきた。
「わたしと同じ名前の人だったから思わず買っちゃった」
 終わったら貸してと頼むと、にっこりと笑って、いいよ、と言ってくれた。

 チャンスを逃すまいと、この時しかないと、彼女に話しかけた。
 今まで、なかなか話しかけることが出来なかった。話しかけるタイミングの時には、自分の前にすでに別の人間がいて、タイミングはあっという間に逃げていった。
 ほとんど人がいない休み時間の教室の真ん中に座っている彼女をちらりと見て、友人とともに教室を出るのだった。

 いつも見ている彼女が、数日前から本を持ち込んで読むようになった。
 授業が終わった途端に、じっと、なんの音も聞き入れないように静かに読み始めるのだった。
 斜め前に座る彼女が本を開くときに見えた。本の中身。
 ぞっとするような、白くて、文字の無い本を彼女は読んでいた。
 目は文字を追うように上下に動く。目線がページの端までくると、きちんとめくる。時々、疲れたように目頭をつまんでしおりをはさむ。
 他の人は誰も気付かない。彼女のことは誰も見ない。彼女がこのまっさらの本を“読んでいる”時には、誰も気にかけないことが、自分にとって有り難く思えた。

「なぁ、お前さっきあいつと何話してたの?」
 いつも連んでいるユウスケが、怪訝な顔をしてやってきた。
 見られてたと思うと嫌な気持ちがするが、隠すことでもないと自分に言い聞かせた。
「別に、本の話してただけだよ」
「・・・・・・うわぁ、お前本なんか読まないくせに!」
「うるさい」
 授業開始のチャイムが鳴ってぱらぱらと生徒が席に着き始める。ユウスケも自分の席に戻っていった。
 ユウスケの口から出た一瞬の沈黙には、嫌そうな意味が込められていた。
 こういう時、友達というものを厄介なものだと思う。

 ユウスケには用事があるから先帰ると言って、いつもよりも早めに、ひとりで学校を出た。
 帰り道を早足で歩いている。空の夕日はいつもより明るくて、暖かい。
 やっとのことで彼女に話しかけることが出来た今日は、あまり良い気分では終わらなかったようだ。
「あのっ・・・・・・待ってっ・・・・・・」
 遠くから聞こえたが、呼びとめてるのは自分じゃないだろうと構わずに歩いていたら、名前を呼ばれた。
 ふりかえると彼女が必死になって走り寄って来ていた。
 予想していなかったことに、瞬きをするのすら忘れた。
 彼女が側まで走ってきて、止まった。
「あのね、これを渡さないといけなくて」
 そして、手に持っていたものを渡してきた。
「え、もう読んだの?」
 あの本だ。
 今日、読み終わったら貸してと言ったのに、今日、貸される。
「うん」
 彼女はそれ以上何も言わなかったが、急いで読み終えたのだろう。ページはまだ残っていたはずだから。
「終わったら感想聞かせてね」
 そう言って、挨拶もせずに彼女は再び走って、去って行った。
 カバーの掛かっていない本を見る。
 文庫本で、表紙には3色ぐらいのパステルカラーでなんの形でもないものの絵が描かれていた。
  題名『ひとという生き物』
  著者 田中 加名子
 漢字も同じ。
 この世のどんな本より難しそうな本を、折れたり傷ついたりしないように、カバンにしまった。

 家に帰って、部屋に行き、制服を着替えないまま、カバンにしまった本を取り出した。
 表紙を見ながらベッドに倒れ込むように寝転がった。
 蛍光灯の逆光で暗くなった本の表紙は、重たい色に見えた。
 もしかして今まで見たこの本の中身は気のせいじゃないだろうか。
 もしかして別のページには文字が書かれているんじゃないだろうか。
 そう思って、表紙をめくって、1ページを見た。
 1ページ目には文字があった。

   ひとという生き物

    田中 加名子

 次のページをめくった。
 期待したのも虚しく、次のページから最後のページまで文字はなかった。
 為す術なく、本を閉じた。
 蛍光灯の光が眩しくて目を瞑った。
 しばらく目を閉じていると、思いついた。
 もしかしたら、文字が小さいだけかもしれない。
 そう思いつくと、部屋にあるパソコンの電源を入れて、母が買ったスキャナを物置からひっぱり出した。
 適当に真ん中らへんのページを開いて、パソコンにスキャンする。そして、スキャンした画像を専用のソフトでズームして見る。
 2倍、4倍、8倍・・・・・・20倍。
 結局、どれだけズームしても何も見えない。
 パソコンの画面に大きく表示されてる、なんの汚れすら見えない画像を前に、お手上げ状態だった。
 少し考えてみれば、とても馬鹿らしいことをしている。
 スキャナから本を取って、再び見る。
 気付くのが遅いことに、スキャンするときに少し押しつけて、開いた跡がついてしまった。
 本を床に置いて、上に辞書を載せた。
 そして、気の利く感想文を考えることにした。

 翌朝、いつもより早く教室へ行って彼女を見た。何もしないでうつむいて座っている。ここ最近していた事を、取ってしまった。
「おはよう」
 彼女の席まで行って声をかけると、振りかえった彼女と目が合った。その後すぐに目を反らされて「おはよう」と返事をされた。目が合ったたった一瞬が、ものすごく貴重で、長い時間に思えた。
 昨日借りた本を差し出す。
「・・・・・・もう読んだの?」
 彼女はちらちらと顔をあげて、こっちの様子を伺うように顔を見る。
 机に置かれた本を見て、自分のもとに戻った本を安心そうに手に取った。
「いや、ゴメン、俺には難しくて読めなかった」
 色々考えた感想文の中で、これを選んだ。嘘は言ってない。適当なことを言って嘘を突き通せる自信がないだけだ。
「あそっか」
 気にする様子はなく、彼女は本をぱらぱらとめくった。
 なんでもない行動だったが、あることを思い出した。結局、本を押し開いた跡は直らなかったのだ。なので本を開けば、当然そのページが開いてしまうのだった。これに関する言い訳は全く考えてない。
 開きやすくなったそのページを彼女は見ると、時間が止まったように動かなくなった。
 唾を飲んで、どうしたのかと見守る。
「ねぇ、もしかしてこのページ読んだの?」
 勢いよく顔を上げて見上げる彼女は嬉しそうだ。
「えっと・・・・・・うん」
「本当に! 良かった、このページ・・・・・・というかこの文だけは読んでほしかったんだ」
 そう言って顔の熱を少し上げて、にこりと笑った。普段笑ってないから、変な笑い方だった。
「どの文?」
 うんとね、と彼女はそのページの真ん中らへんを指差して言った。
「ここ、この文が好きなの」

 ひとは たくさんののうりょくを てにいれたが そのかわり うしなったちからが たくさんある

 呟くようにその文を読み上げた。
「私すごい感動したの。この人が言ってるこの意味をすごく簡単に受け入れられて・・・・・・大好き」
 そうやってうっとりしている彼女は、本を抱えて空に浮かんでいるようだ。遠くに感じる。徐々に、さらに遠くに離れていくようだ。
 最後の言葉を自分に向けて言ってほしくて堪らなくなった。
「ここ、読んでくれてありがとう」
 そして彼女は蛍光ペンで、そのページに線を引いた。
 教室に人が増え、朝の自由な時間が終わった。

 帰って、急いでパソコンを点けた。
 昨日、スキャナで取り込んだ画像を開いた。
 彼女が好きだと言ったページ。彼女はこれの真ん中らへんを指差して、真ん中らへんに線を引いた。
 どんなに見ていても文字が見えることはない。
 ひとは たくさんののうりょくを てにいれたが そのかわり うしなったちからが たくさんある
「人は沢山の能力を手に入れたが、その代り失った力が沢山ある・・・・・・って、どんな小説だよ」
 好きな理由も聞けば良かったと思った。
 明日、学校へ行くのが待ちきれない。

 翌朝もいつもより早く・・・・・・というわけにはいかず寝坊してしまったので、いつもより遅く学校に着いた。
 教室には半分以上の人がもういた。彼女は『ひとという生き物』を読んでいる。
 荷物を机に置いて、もう一度見るとページを全然めくっていないことに気付いた。蛍光色の線は見えないからあのページではない。
 読み終わったからだ。もう読むところが無いからだ。何もすることが無いから。何もしてないのが変だから。本を読んでいるフリをしている。
 話しかけよう、と一歩踏み出したら、腕をぐいっと引っ張られた。
「なんだよお前今日寝坊したのかぁ?」
 そんなに面白くないことでユウスケが笑っている。
「俺なんか2時間前に来てんのにさぁ」
「・・・・・・うそつけボケ!」
 全然面白くないことで、二人で大笑いする。
 授業がうっとうしい。



つづく(後編へ)





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